逃げることを前提に置く。

自分が逃げてしまうことに対して、どこかで後ろめたさのようなものを感じる時がある。

自分が苦手で、うまく処理できなくて、後から面倒なことになりそうなときに、どこかで逃げてしまいそうになる。

そして、逃げてしまったことを思い返して、自己嫌悪に陥ってしまったりもする。

そして、そんな時に限って、起きていることは全て自分の責任であり、全てを引き受けるべきだ、といったメッセージが目に飛び込んきて、心をチクチクと刺してくる。

だが、果たして、逃げることが自己嫌悪に結びつけるルートしかないだろうか。

逃げているな、という感覚は、他の人はそれほど気がつかなくても、自分では気がついている。

逃げるということは自分を守るということであり、それは自己防衛の本能とも言える。

自分を守ることができて、初めて人に何かできる。

もちろん、自分の命を引き換えにでも守るべきものもあるかもしれない。

だが、そんな時には逃げるか行くかなんてことすら頭に思い浮かばないはずだ。

それも無意識の反応であり、誰か例えば自分の子供などを守るというのは本能に近いだろう。

逃げることで自己防衛が働くとするならば、むしろ本能は適切に機能しているとも言える。

本能が適切に機能しているということは、それだけ自然なことである。

だから逃げることは、自分に対して自然体なことなんだと。

みんなが逃げてしまったら、社会はどうなるんだ、と思う人もいるのかもしれないが、そんな事は本来、社会が必要としていることなのだろうか?

それを単なる自己弁護だ、と称してまた自分を傷つけてしまっては、また元の木阿弥になってしまう。

僕らは逃げることへのネガティブなイメージというのがどうしても根強い。

まずは心地よくないことから逃げる。

逃げることをまずは前提に置く、ぐらいの気持ちでもいいんじゃないだろうか。